玉ねぎのあれは目にしみる。

〝考え厨〟の頭の中のキロク。

相手が子供だろうが大人だろうが、信頼は「いつもの姿勢」からしか生まれない

 

1.信頼は「いつもの姿勢」からしか生まれない

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見てるんだよね、背中を

最近、子育てで悩んでいたことがありました。

 

悩みの詳細は後述しますが、それを紐解いていく中で、子育ても大人同士のコミュニケーションも結局同じだなぁ、と考えさせられる出来事がありました。

 

何が同じかっていうと、

 

相手が子供だろうが大人だろうが、そもそも信頼関係がなけりゃ話になんないよね

 

ってこと。

 

信頼関係って「いつも約束を守ってくれる」とか「いつも話を否定せずに聞いてくれる」とか、結局「いつもの姿勢」から生まれるもの。

 

それに当てはめると、子供との信頼関係も結局「いつもの姿勢だよなぁって。

 

  • いつもママは遊んでくれる
  • いつもママは話を聞いてくれる
  • いつもママは私を好きでいてくれてる

 

「いつもママは私を見てくれている」という愛着形成が出来てこその信頼関係。

 

子育ても人との付き合い方も正解はない。

だから難しい。

 

正解は人の数だけある。

何が信頼に繋がるかも微妙に人によって違う。

だから難しい。

 

だけど、信頼や愛情は「いつもの姿勢」からしか生まれない。これはみんな一緒。

 

小さくて大したことない出来事ではあるけど、これからも子供と生活していく中で「信頼関係」、つまりいつもの姿勢」を基準として考える考え方は大事だなぁと感じたので、今日はそのことについて書いていきたいと思います。

 

 

2.子供とのコミュニケーションの取り方で悩んでいたこと

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“無限電池”を背負っている子どもたち…

何に悩んでいたかというと、

 

子供のテンションについていけなーい( ´-` lIl)ゲッソリ

 

ってことが増えて来てたこと(笑)

 

今娘が2歳4ヵ月になったところですが、語彙が大爆発しています。

 

2歳になるちょっと前からおしゃべりが上手になりだして、歌が歌えるように。そして噂の「イヤイヤ期」にも突入。

 

「嫌」という気持ちだけでなく「嬉しい」とか「楽しい」とか「自分はこうしたい」という気持ちをしっかりと言葉で表現出来るようになりました。

 

ほんと急に動物から人になったって感じ。

 

テンションが全解放しています、プラスにもマイナスにも。

 

嬉しい時も全力!

怒っている時も全力!

不満な時も全力!

 

常にフルMAXのテンションで気持ちを言葉にのせてぶち当たってきます。

 

で、問題なのが、過去のブログにも書いているんですけど、私がこういった子供の全解放されているテンションについていくのが元々苦手な人間っていうこと…(苦笑)。

 

urarie.hatenablog.com

 

いや、私も生粋の関西人なので「テンションおもしろモード」みたいなチャンネルは標準装備されてるし、割と陽気な人間なんですけど、、、ずーーっとはなかなか大変…(笑)。

 

かたや子供はこっちの事情おかまいなしに、常にフルMAXのテンション、、、。

 

まぁ幼児に限っていえば、こうやってテンション全解放でマシンガントークするのも、イヤ!!って気持ちを全力で表現するのも、ものすごく順調な成長を遂げている証拠。

 

だからそれを辞めさせるとか、制限させるとかは絶対にしたくない。

 

でも一方で、受け止められない気分の時も現実問題としてある。そういう時にどうしてあげたらいいんだー!?

 

という点で悩んでいました。

 

ママも人間だもの・・・しんどい時もあるのよ・・・疲れている時もあるのよ・・・

 

 

3.どんな工夫を取り入れたか?

結果的には、「いつもの姿勢」を見直したことで良い方向に向かっています。

 

娘と私の信頼関係を地道に積み重ねていこうという気持ちで、生活に『工夫』を取り入れることにしました。

 

どんな工夫かというと、たとえばこんな3つ。

 

  1. 園へのお迎えをあえて徒歩で行く
  2. 朝のメイクはダイニングでする
  3. いちゃいちゃタイムの回数を増やす

 

それぞれの詳細についてまとめてみました。

 

1.園へのお迎えを“あえて”徒歩で行く

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家ってこんなに遠かったっけ…?笑

保育園の送迎用に子乗せ電動自転車を買ったのですが、今は朝しか使っていません。お迎えは“あえて”徒歩で行っています。

 

自転車だと5分ほどの道のりですが、子供と一緒に歩いて帰ると30〜40分はかかります(笑)

 

落ち葉や木の実を拾ってみたり

階段を登ったり降りたり

途中のベンチでお菓子を半分こしながら休憩したり

公園ですべり台をしてみたり

 

子供の好奇心の赴くままに、寄り道をしっかりしながら帰ることにしています。

 

「1分でも早く帰って家事や育児に取り掛かりたい( ー̀罒ー́;)」

 

今まではそういう気持ちが強かったですが、今はこの寄り道タイムが平日の親子の大事なコミュニケーションタイムとなっています。

 

もちろん、この時間を作るためにそもそも家事の時短も工夫が必要。

 

便利家電や宅配サービスを駆使して生み出した時間を、このお迎え後の寄り道タイムに充てることにしています。

 

 

2.メイクはダイニングでする

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洗面所でやる方が速いんだけどね

これは賛否両論ある気がしますが、私にとっては朝のメイクタイムは親子の大事なコミュニケーションの時間になっています。

 

朝はどうしてもバタバタと動きがちで、じっと何分も娘の隣に座っておしゃべりに付き合う余裕がありませんでした。

 

であれば、嫌でも15分ほどじっとせざるを得ないメイクの時間を、あえて子供が起きてから&あえて子供の隣でやったらどうだろう?

 

という発想の転換で今に至ります。

 

最初は衛生面の観点から娘に化粧品やメイク道具の存在を認知させるのはどうなんだろう?と迷いましたが、思い切ってやってみた結果、これが意外とよかったです。

 

娘の最初の反応は予想どおり興味津々で「これは何だ!?」「これは?これは?」の質問攻めでした(笑)。

 

その時に「触っちゃダメ」ではなくて、一つ一つ「それはマスカラ」「それはアイブロー」「それはチーク」と答えて好きに触らせてあげたのですが、これが良かった様です。

 

「これは、ちーく!ますから!」などと喜びながらある程度自由に触ると満足し、3日目ぐらいから横で私がメイクをしてても気にする素振りもなく、メイク道具にも触らなくなりました。

 

触ると言っても、自分で蓋をひねって開けたりはまだ出来ないので、ちゃんと大人が見てさえいれば危険性はないんじゃないかなと思います。

 

今はメイク中の私の膝に娘がゴロゴロ乗ってきたり、隣にぴったりくっつきながらテレビを見ている事が多く、おしゃべりをしたり触れ合いながら、のんびり楽しく朝の準備が出来ています。

 

 

3.いちゃいちゃタイムの回数を増やす

『いちゃいちゃタイム』とはこちらです。

urarie.hatenablog.com

 

朝、娘が目覚めた時

夜ご飯のあと

寝る前

 

心に余裕がある時は、集中してイチャイチャするようにしています(笑)

 

ワーママ・ワーパパが、平日に子供とゆったりと過ごせる時間は限られています。そのわずかな時間の中で、出勤や登園の準備をしたり家事・育児をこなす「作業」がどうしても最優先となりがち。

 

子供とじっくりと触れ合える時間は一体何時間?…いや、何分?

 

私の場合は、この時間が全然確保出来ていなかったな、と反省しました。

 

忙しい時こそ家事もスマホも一旦ほったらかして思い切っていちゃいちゃした方が、その後子供のテンションがほくほくして落ち着いていることが多いです。

 

たった2〜3分のいちゃいちゃタイムであったとしても、子供にはしっかり伝わっていると実感しています。

 

 

4.いつもの姿勢を見直した結果、起きた変化

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「何だかちょっと前と違うママ…」

自分なりにいつもの姿勢を見直して子供と接していた中で嬉しい変化がありました。

 

その日は仕事が忙しくて、お迎えの後も凄く疲れていました。その時にテンションフルMAXで話しかけてくる娘にこう言いました。

 

「今日は、ママすっごくしんどいの。ちょっと休憩してもいい?」

 

すると、以前なら「やーだ!あそぶ!!」とご不満な表情を見せていた娘が「うん、わかった」とすんなり受け入れてくれました。

 

「おねつ、はかる?」と体温計を持って来て私の服の中に投げ込んでくれたり(←脇に挟むということはわからなかったみたいです笑)、「〇〇ちゃんがトントンしてあげる」と横たわる私のお腹をトントンしてくれました。

 

その後も一人でテレビを見たり、おもちゃで遊んだりしながら、静かに横で過ごしてくれたことがあります。

 

2歳と侮ることなかれ。子供と侮ることなかれ。

 

子供は子供なりに、よくも悪くもしっかり親の言動をいつも見ているんだな、と痛感した出来事でした。

 

これも、日々の「いつもの姿勢」を改善したことで、娘の中で「ママはいつも私のことを見てくれている、遊んでくれる」という安心感・信頼感が育まれてきた証拠なのかなーと、いいように解釈しています(笑)。

 

子供も親も人間なので、そんな綺麗ごとだけではどうにもなんない日も勿論あります。

 

そうやってうまく行かない日が時々あったとしても、大事なことは変わらなくて、

 

信頼や愛情は「いつもの姿勢」からしか生まれない。一朝一夕では築けない。

それは相手が子供だろうが大人だろうが同じこと。

 

これからも子供や大切な人と生活していく中で「信頼関係」、つまり「いつもの姿勢」を基準として考える考え方は大事だなぁと実感した出来事でした。

 

 

 

* うらりえ *

 

ブログを続けたら「メタく」なれるかも

 

 

1.Facebookが社名を「メタ」に変更したそうです

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当時のこの「青いf」の人気はなかなかだった記憶がある

 

10月28日、Facebookが社名を「Meta(メタ)」に変更しましたね。

 

このニュースを知った最初の感想は

 

「ん・・・!?メタだと・・・!?」

 

と妙に刺さりました。

 

というのも、ちょーーど今わたしの中で「メタ」という単語が熱いんですよ。

 

以前の記事で「コーチング」に興味がある旨を書いたんだけど、その流れでメタ認知という概念と出会ったんですよね。

 

urarie.hatenablog.com

 

メタとは「高次の〜」とか「卓越した〜」って意味。つまりメタ認知っていうのは『自分が認知していること(記憶、思考、感情、知識とか)を、高次の視点から認知する』という直訳になる。

 

もうちょっと平たくいうと『自分を客観視出来て、さらにコントロール出来る能力』ってこと。

 

教育関係や人材育成、経営などの業界で重要な能力の一つとして注目されるようになってるみたいなんだけど、人生快適にいきたい身としても個人的にはこの力は大事だなーと思ってる。

 

まぁそんなこんなで、今わたしの中では「メタ(認知)」がホットな訳なので、今日はメタなおはなしをしたいと思う。

 

あ、ちなみにちょっと話は逸れるけど。

見出しのFacebookの話だけ回収しておく。

 

Facebookの方の「メタ」の由来は、仮想空間である「Metaverse(メタバース)」事業に本気で取り組んでいく姿勢の表れらしいよ。

 

メタバースってのは「超(meta)」と「宇宙(universe)」を組み合わせた造語なんだって。元々は、SF作家のニール・スティーヴンスンさんって人が、1992年に発表した作品『スノウ・クラッシュ』に登場する、架空の仮想空間サービスに付けられた名前だったらしい。(※参考サイト「IT media NEWS」より)

 

Facebookの方の「メタ」は、もっと高次元的なハイテク臭の強い「メタ」っぽいね。

 

まぁわたしにとっては、はてなブログも、Facebookも、Instagramも、twitterも、広い意味では充分メタバースだけど。

 

わたしがインターネットという仮想空間でしっかり息するようになった背景には、「コロナ」と「育児」という現実世界の閉塞感がきっかけとしてある。まだコロナとのお付き合いは完全には切れないし、その中で毎日に窮屈さを感じる人もさらに増えていくだろうな…。

 

もっとハイテクに、もっとフレキシブルに、思い思いのアバターで「もう一つの現実」を生きていけるようになれば、そんな世界はこれからの時代では重宝されそうな気がするよ。

 

別にそういうものに強い期待をしている訳ではないけど「メタ繋がり」ってことで妙にFacebook社、否、Meta社の肩を持っている感じになってしまった。メタ友~。

 

 

2.ブロガーって、ある意味メタい

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「メタい」って何よ・・・?

 

メタ友?・Meta社の話はほどほどにして、私の中のホットな「メタ」の話をしていこうと思う。

 

見出しにもある通り、わたしは前から強く思っていることがあるんですよ。それが何かっていうと、ブロガーってブログやってない頃の自分と比べたら、メタ認知能力が高まっていると思うんだよね。

 

ブログ、とひと言で言っても色んなジャンルのブログがある。でもどんなブロガーでも、自分の日常、思考、知識、記憶、そういうあらゆるものを俯瞰的に見ながら文章に落とし込んでる、という点においては共通してる。

 

めっちゃメタ認知してるじゃーん。しかも日常的に。

 

※実際はさ、メタ認知的能力を使って「不得意分野への対処法などを把握する」ことまでできてはじめてメタ認知能力を高めることができてる、というらしいけど…。ま、そういう難しいことは一旦横においとこ。

 

わたしは、はてなブログを始める前の15年間くらいは、オシャレでもなんでもないただの大学ノートに、わわわ〜っとアレやらコレやらを書き殴ってた。そういうことをずっとやってたから体感的にも感じてるんだけど、シンプルに「書く」ってメタれるよなーって。自分の中身も、周りのことも、俯瞰的によく整理出来る。

 

プラットフォームが大学ノートからブログに変わったことで難しさも増えたり、自分の文章の下手さとかそういう残念な面も露呈しちゃったりもしてるけど(しょぼーん)、それって捉え方を変えれば、別角度からメタれてるってことなのかな?そう思うと、これはこれで全然ありなのかも。

 

それにさ、ブロガーさんなら自分の記事を読み返す人も多いと思うんだよね。単純に昔のアルバムを懐かしむ感覚で読み返す人もいれば、リライトするって目的がある人もいたり、人それぞれだと思うけど。

 

今提供されている、はてなブログの特別お題の中でもこんな質問があった。

 

『Q:自分の記事を読み返すことはある?』

 

わたしは大学ノート時代からそうしていたように、ブログもときどき読み返すんだけど、これもいい感じにメタれるなって思ってる。

 

「うわーこの時の自分、残念やなぁ。笑」とか

「で、結局何が言いたかったん、これ」とか

「これは黒歴史やなぁ・・・(苦笑)」とか

 

まぁそういうのが多いんだけど(笑)、稀に良い方のやつもあったりする。読み返すことで頑張ろうって思えたり、ほっこりする時もある。きっとブロガーさんならこんな感覚あり・・・ますよね?

 

こうやって自分が紡いだ文章を読み返すことも、時間差のメタ認知だと思う。

 

つまりさ、

 

世のブロガーさんってみんなメタくて好きだって話です。

 

…メタ友がほしいです(笑)。

 

 

 

3.自己肯定感という言葉にメスを入れたい

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大事なのは「バランス」ですよ

 

メタな話といえばもう一つ。前から思っていることがあって。

 

いつからか「自己肯定感」という言葉を世の中で見かけることが急に増えた。どっかの何かのタイミングで流行ったのかなぁ。

 

自己肯定感って大事だと思う。けどさ、必要以上に煽りすぎてない(笑)?って当時思ってたんだよね。

 

自己肯定感ってのはさ、自己否定感とセットで持たないといけないと思うんですよ。

 

そんでもって、

 

どのタイミングでどっちを発動させるかはメタ認知」でコントロール出来てこそ意味がある。

 

自己否定感って書くと、己の存在を全否定する感も含まれてしまいそうで、それはかなりニュアンスが違うんだけど。もっと部分的に、自分を疑うというか、客観視してみるというか。

 

例えると、自分を「」という容れ物として捉える感じかなぁ。

 

  • 自己肯定感=アクセル
  • 自己否定(懐疑)感=ブレーキ
  • メタ認知=運転手

 

前の記事にも似たようなこと書いた気がするけど、一番だいじなのは「自己肯定感」よりも「バランス」だと思うんですよ。

 

urarie.hatenablog.com

 

不調なとき、進めなくなったときは、アクセルを踏めるように自己肯定感を養うための生活、人付き合いを優先した方がいいだろうし、

 

好調なとき、物事が順調なときは、調子に乗らず、いつでもブレーキを踏めるようにフラットな目で周りと自分を見ておいた方がいい。

 

わたしの乗ってるクルマは、ブランド物でもなければ高性能でもないし、自動アクセル&ブレーキがついてるわけでもない。さらには今どきレンタカーにも標準で付いてくるナビすらも付いてない。

 

快適なドライブライフになるか否かは運転手の力量次第みたいなとこある。

 

 

ついでに、つい数年前から私のクルマにはお客さまが乗ってらっしゃいまして。助手席にちょーんと2歳が座ってるんですよ。

 

この小さなお客さまを教習所にお連れして、自分の小さなクルマを運転できるようになるまで見守りながら、「ハタチ」という場所まで無事に送り届けねばいけませぬ。

 

そうやって彼女を色んな場所に連れて行きつつも、わたしはわたしで行きたい場所に立ち寄りたいし、自分のドライブライフも楽しみたいと思ってる。

 

1台の普通車で2人分のコースを走って行くのは欲張りかもしれないけど、やれるだけやりたいですねぇ(とおいめ…)。

 

その為にも、迷いなき運転手としてメタっていきたい所存です、はい。

 

 

4.【特別お題】この10年で変わったこと

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祝・10周年

 

はてなブログさんが2021年11月7日にサービス開始から10周年を迎えられるそうです。凄い。おめでとうございます(パチパチ!)

 

10周年を記念して10にまつわるお題が出題されてます。

 

『Q.10年で変わったこと・変わらなかったこと?』

 

ここまで書いてきた通り、わたしがこの10年で変わったと思うことは「昔よりは運転手らしくなってきたんじゃないか」という点かな。

 

正直まだまだ自分を客観視しきれてないけど、10年前のじぶんと比べたら幾分かマシになってると思う。さっきも書いたけど、それは はてなブログさんのお陰でもあるんですよ。初心者でも簡単に執筆しやすいブログというプラットフォームを提供してもらえてるんだもん。ありがたい〜。

 

これからも他のブロガーさんをひっそりと応援しつつ(メタ友…)、私自身もブログを続けてメタくなっていきたい。

 

 

 *うらりえ*

 

 

はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと

無双することのデメリット&無双しないことのデメリットについて

 

 

1.本日は超ひとりごとです

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ぼーっと過ごして、出来ればひとりごとを「アイデア」にまで昇華したい…

はい、得意の夜中執筆です。我がおなかの上に乗っかって爆睡している2歳(重さ約12kg)をそっと引っぺがしてPC前に来てしまいました(笑)。

 

わたしはですね、頭がフル回転するような出来事が起きると、大体夜中に目が覚めてそこから寝れなくなるんですよねー…。これは苦痛ではなくて「わー考えが止まらないー謎が解けそうー」っていう良い方のギラつき。もはや考えることが趣味の領域なんだろな。

 

ってことで、どうせベッドに横たわっていても寝れないんで、それなら言語化しちゃいたいって感じで のそっと起きて来ました。

 

#思考メモ

#超思考メモ

#このタグの由来は過去記事へ

 

urarie.hatenablog.com

 

書いている途中の他の記事もあるし、ブログ以外にやりたいこととか、やらなきゃいけないこととか色々あるんだけど、夜中にこの状態になった時はこの思考を優先するって決めてるんです、最近は。なんていうんだろうな、睡眠欲に勝つぐらい「だいじなこと」か「印象的なこと」だったりすることがほとんどだから。

 

はい、前置きはこれくらいで。

 

 

 

2.先週気付いた2つのこと

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日常の気付きは大事にしたいですねぇ。

 

先週仕事中にあることがあった。出来事としてはほんの些細なことだったんだけど、ずーっと前から芽が出てきてたアレとかコレとかと、何かパチーーッとハマった。から、こういう状態になっている訳でして。

 

まず結論から。気付いた2つのことっていうのは、

  • もしかしたら自分は周りの人の成長の機会を奪っているかもしれないということ
  • もしかしたら今が、望まれていないけどこちらから働きかける時かもしれないっていうこと

 

まず先週のはなし。

 

過去の記事にも書いたけど、わたしは今のチームでは「改革」を担当させてもらっている。

 

えーっと、確かこれに書いた。

urarie.hatenablog.com

 

「改革担当」みたいな公の役職名とかはないけど、今となってはそれっぽいことはほほ全部 自動的に集まってくるようになった。そういう状況に仕向けたのは自分。

 

  • 自分はやりたい
  • 周りはやりたくない

 

win-winすぎて、なーんの問題もないやん。

 

と思ってたんだけど、

 

果たしてほんとにそうなのか?

 

と、先週の一件で思いました。

 

先週あったことを簡潔に伝えるならば、本来なら私が適任だろうと思われる他部署への報告業務、他の女性(仮称:ドーナツさん、とでもしよう)がしてくれたんですよ。

 

この報告業務の対象となったものが、「改革」の一環として導入されたシステムに関することだったから、そういう意味で適任が私だったんだよね。

 

「スムーズに完了させられる」という意味での適任は私だったけど、「現時点での運用主担当はドーナツさん」という意味ではドーナツさんが対応するという選択でも筋は通ってるし、まぁ、しゃしゃり出る必要はないなと思って、見守ってました。ドーナツさん、わたしの後輩だけど、そもそも年上だしな、というのもあり。

 

その結果、ただ報告するだけで良かったはずなのに、他部署の上位役職者に言いくるめられて、謎に余計な仕事まで押し付けられて帰って来た。

 

いや、なんでやねんw

 

ってうちのチームが全員ズコーッてなりまして(笑)

 

最終的にはうちのチームの上司が「俺の名前を遣って断ってきます」って動いてくれたから、この件は昨日のうちに処理が終わったんだけど(上司の鑑)、この一件は色々考えさせられたね。

 

 

3.気付き1:無双することでまわりの成長を奪っている疑惑

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子供って純粋に“無双”している気がするなぁ

 

無双って書くとなんかゴッツイけど(笑)。シンプルに自分が好きとか得意っていう領域で、楽しくやってたり成果を上げてたり。そういうもうちょっと柔和なイメージです、はい。

 

見出しの気付きがあったものの、結論、わたし自身はそのままでいいと考えている。これまで通り、自分の得意を活かして「改革」を推し進めて、その「改革」の上で詳しくなったこと、繋がった人脈をフルに生かしてチームに貢献するのが、一番全体の利になると思うから。

 

ただ、そうやって無双することで、まわりの誰かの成長の機会を奪っているかもしれない、という意識だけは持っておこうと思った。

 

今回の件でいうと、簡単な作業と侮ることなかれ、報告相手が曲者であることを鑑みると、交渉力とか胆力(度胸)とか、あと人脈形成が出来るとか、得られるものも色々あったわけですよ。

 

こういう類の「成長」がドーナツさんに必要かどうかを判断するのは上司。上司が「もっとドーナツさんにこういうことを任せていこう」と言うなら、わたしは喜んでサポートする。それも将来的には全体の利になるし、そもそも上司のチーム運営のやり方に、基本的にわたしは全幅の信頼をおいているから。

 

もしくはドーナツさん本人がこの類の課題を自ら望むなら、その場合も私は喜んでサポートする。チャンスが巡ってきたらジャンジャン渡すよ。能動的に何をやりたいと言っている人は個人的に応援したいし。

 

でも現時点では、上司もドーナツさんもそういうアクションはない訳だから、ステイでよいと考えている次第。

 

誰かに遠慮したり、気を遣ったりすることなく、のびのび楽しい~!!って無双している状態って、能力もアイデアも全解放されててめっちゃ健康的だと思うんだよね。

 

実際わたし自身、改革に関してはチーム内への遠慮とか変な気遣いなく好きな様に動きまくってるから、楽しいし、成果もあがりやすい。

 

個人的に思う究極の理想論だけど、仕事のチームとか友人間とか家庭内でも、自分が苦手なことはそれが得意な人にぜーんぶ任せて、全員がじぶんのポジションで無双状態になれたらめっちゃ楽しいし強いよなーとか思う訳ですよ。

 

この辺の話と若干かぶる。

urarie.hatenablog.com

 

だから今後も、そういうあんまりプラスにならない方のブレーキ(変な遠慮、行き過ぎた配慮)は持たなくていいんじゃないかな、と思ってる。

 

一旦今回の件に関しては『ステイ(現状維持)』でいくけど、自分の得意分野で無双することで誰かの成長の機会を奪っているかもしれない、という意識だけは持っておいた方がよさそうだな、というのが1つ目の気付き。

 

 

 

4.気付き2:望まれていなくても働きかけるべき時がある疑惑

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はたらきかける…?

 

これは「疑惑」ってか「確信」に近いけど、ありますよね、きっと、こういう時って。

 

今回の件でいうと、ドーナツさんの本音にふれるなら今かも??とかって個人的に迷ってるんですよ。

 

んー、色々はしょって端的にまとめるとですね、

 

現時点では職場でドーナツさんの本心を理解している人は誰一人としていない

 

と、わたしは感じてる。この読みはそこそこ外してない自信がなんとなくある。そんでもってこの状態って、うちの会社的にも、あとわたし個人的にもあんまりよくない状態だと思ってる。ドーナツさん自身がどう思ってるのかは知らないけど。

 

うちの会社はさ、謎の遠慮を捨てて、個性ぶちかましてる人が無双できる環境なんですよ(必要な配慮とマナーがない人には厳しいけどね)。自分から発信したもの勝ち、上司の力は遣うが正解、短所を改善するよりも長所伸ばしてこうぜ〜的な。

 

そういう社風が好きで入社して、今尚身をおき続けてる私個人としても、この考え方には賛成派。

 

だからドーナツさんみたいな自ら本心を発しない系の『ことなかれ主義の人』って、サポートしづらい部分は正直ある、会社の毛色的にも、わたし的にも。「自分から発信する」っていうのに重きを置いてる人が多いから。

 

話は少し変わるけど。

 

日々ブログで自分のことを棚卸ししている内に、やっと言語化できた「なりたい像」みたいなのがあるんですが。

 

あ、ここに書いてる。

urarie.hatenablog.com

 

  • いろんな選択肢を提示できる大人でありたい
  • 基本的には相手の意志を尊重したい
  • でも必要な時は流れに逆らってでも引っ張ってあげたい

 

でもこれって、明らかに歳の離れた後輩とか、子供とか、どうやっても自分が下から見上げられる立場であるときに限っての「なりたい像」なんだよね。

 

同年代とか、ましてや年上に対しては「私なんぞが何おこがましいこと言ってんねん」となるので、対象外なんですよ。わたしから働きかける対象の外。

 

だけどそれは「興味の外」、アウトオブ眼中(←なんか懐かしい響き笑)って訳ではない。興味はあるし、見てる。けど、積極的に働きかけはしないってだけ。

 

年上の人に至っては人生の先輩でもあるし、自分の軸みたいなもんはご自分の中で確立されているだろうし。

 

で、例のドーナツさんは、私のこの理屈でいうと「対象外」の人だったわけですよ。見習うべき年上らしさみたいなのも持っている人だし(ドーナツさんはわたしの後輩だけど年上なんです)

 

でもなんか昨日のドーナツさんを見てて感じたことがひとつある。

 

この人は『ことなかれ主義』を本心からやりたくてやってるんじゃなくて過去の環境のせいで)それが染みついちゃってるんかもしれない、という仮説が自分の中で急速に大きくなってます。

 

もしこの仮説が正しいなら、彼女がじぶんの本心を出せない・出さないことは『我慢』てことになるし、知らず知らずの内に『無双ライフ』から遠ざかっていってることになる。

 

これはマイナスにもなんないけど、プラスもない。

 

ことなかれ主義の人って、大体このプラマイゼロの状態を自ら好んでやってる。ほんとに自ら望んでやってるんだったら、好きにしたらいい。

 

でもそうじゃない説が出てるからちょっと迷ってる。見出しにもある通り、まさに今が「望まれてもないけど働きかける時」なのかなぁ?なんて。

 

やー、別にまぁいっか?

んー、でも物理的に距離いちばん近いん私やしなぁ、どうしよかなぁー。

 

ドライ君とウェットちゃんがせめぎ合ってます。笑

urarie.hatenablog.com

 

 

見事に超〜ひとりごとですが、おしまい。笑

 

 

*うらりえ*

続けるかやめるか考えたら、やりたいことの輪郭が浮き彫りになってきた

 

1.なりたい像があるようです

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なりたい像…?

 

前回の記事のつづき。今の自分の仕事を続ける覚悟をもつべきか、やめる勇気を出すべきか、じっくり考えてみた。今回はいつも以上にものすごぉーーく自分のはなし。

 

#思考メモ

#これは自分の話を気兼ねなく書きたいときにつけるタグなのだ、そう決めたのだ

#最近まじめな話しかしてなくない?

 

urarie.hatenablog.com

 

結論、「人育て」の成功体験をもう少し積むまでは今の仕事を続けようと思う。

 

わたしは今、時短勤務をさせてもらっている正社員ワーママ(working mother)なんだけど、来年この時短勤務制度は終了する予定。時短勤務中の今ですら結構キツイと思う場面が多々あって、暗にこの先どうしようかとモヤついていた。けど一旦方向性を定めました、自分の中で。それがさっきのアレ。

 

  • 何のために自ら選んでワーママしてるんだっけ?
  • なんで子供が苦手なくせに子供を産む決意を固めたんだっけ?
  • この先何がしたいかなー?

 

とか、色々整理しつつ考えてみた。そしたら、すべての道の根っこの方で繋がってる想いがあるなぁと気付きまして。

 

わたしは自分のそばにいる後輩や子供たちに色んな選択肢を提示できる大人でいたい、などと思っているようです。んー、今の自分の器量を自分が1番わかっているからこそ、なかなか大層な目標をお持ちだこと、って感じですが‪‪(笑)

 

たとえば娘に「大きくなったらママみたいになりたい!」とか言われたい、とかじゃない。いや、もし実際そんなん言われたらすんごいうれしいかわいいうれしいーーって絶対なるけど(笑)。なるけど、そうじゃなくて。

 

「なんでそう思うの?」ってとこをちゃんと聞いてあげたいし、本人が自分でも気付けていない本音の部分を引き出してあげたい。それなら別に私を目指さなくてもこういう道もあるんじゃない?って、色んな選択肢を見せてあげたい。大人のエゴを押し付けるのは絶対やだなぁ。

 

数ある選択肢の中から何を選ぶかはその子次第だし、頑張るのも頑張らないのもその子次第。自由にしたらいいと思う。

 

ただ、これだけは悲しいなと思うのは

「そんな選択肢があるとは知らなかった

「やりたかったのに出来なかった

ってことなんじゃないかな、と思うのよ。

 

わたし一人で提示できる選択肢なんて限られているけれど、別にわたしが森羅万象の神を目指すわけじゃないからな。わたしが知らないことは一緒に調べたり探せばいいだけだし、知っている人に聞けばいいだけだし、何かしら手はあると思う。

 

大事にしたいのは、そういう芽に気付いてあげること。その子の本音を引き出してあげること。そういうことが出来る大人でいたいんですよねぇ。

 

これは我が子に対してだけでなく、自分の半径5m圏内の年下に対しては。自分の器が大きくなっていけば5m以上先にも目をやりたいけど、今はそこまで考えられるほど残念ながら人間は出来ていない。まずは目と、手が届く範囲で。

 

 

 

2.オーダーメイド製の人育てがしたいですね

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着ている服は既製品ばっかですけどね

なんで今、人育てに強い興味を惹かれているんだろう?って自分の経験を棚卸ししてみたんだけど、別に今に始まったことじゃなかった。ずーっと前から興味津々だったわ。

 

だけど昔は人を育てられるような器もなければ技術も無くて、何度も悔しい思いをしてきたなー。

 

「わたしはあの子にどうしてあげるのが正解だったんだろう」

「あー、また救ってあげられなかったなぁ」

 

そういう風に落ち込んだ失敗体験は、10代20代の頃に山ほどやってきた。後輩に対して。生徒に対して(むかし家庭教師してたんですよ)。クライアントに対して。友人に対して。

 

でもやっとね、30過ぎて、人として少しまぁーるくなり出して、で今の職場で人育ての成功体験を少し積み出して来たあたりから、ようやくちょっと端っこの方が分かって来たんだよね。あー、そもそもわたしは「他者への理解」というやつがあまりにも浅かったなぁって。

 

「人を育てる」っていうのは「人を理解する」ってことなのかなって思う。

たとえそれが自分と価値観が180度ちがう人間であっても。

 

自分の知っていること、出来ることを、答えをただ伝えるだけじゃダメなんだよね。相手の中から引き出した「アレ」とか「ソレ」とかを、こちらが伝えたい「コレ」と、こう混ぜ合わせてだなぁ。こう、2人で作っていくといいますかねぇ。(消え去った語彙力)

 

その為には、その子が好きなもの、嫌いなもの、やりたいこと、やりたくないこと、得意なこと、苦手なこと、ってかどんな人生歩んできたんよ?とか、そういうのを時間をかけて理解していくことが大前提だわって。

 

教育法とか育成法みたいなのは色々あると思うしどれからも学ぶことはたくさんあるんだけど、わたしは型に押し込むレディメイド(既製品)方式ではなくて、ひとりひとりの個性にあわせたオーダーメイド方式で人を育てたい。難しいし、手間も時間もかかるし、一度に見れる人数は限られるし、量産もできないけど、それがいい。

 

んで、それを実現するためには「自分とまったく価値観の違う年下を理解できるかどうか」っていうのが今後も課題になっていくんでしょうね。

 

 

3.エゴと思いやりは紙一重

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オシャレとダサい、天才と変人…。世の中紙一重なこといっぱい。

どこかのタイミングでコーチン』の勉強をしたいなと考えてる。仮に、今後仕事で「教育」に携わる場面が減った(なくなった)としても、子育てで役に立つ考え方を獲得することが出来る気がする。

 

コーチングとは、対象者の自主性を促し、能力や可能性を最大限に引き出しながら、目標達成に向けてモチベーションを高めるコミュニケーション手法。

「業務改善ノート TMG」より引用)

 

コーチングは別に新しい技術じゃない。私が知っている限りでも10年以上前からある。

 

私がコーチングという技術を知ったきっかけは人材業界で働いていた23歳のとき。当時のチームリーダー(30歳女性)がコーチングを勉強していた。第一印象は「ふーん」って感じ(笑)。別に、人材業界にいる人間が育成法とかコミュニケーション法について勉強する志向はなんら不思議じゃないし、とくに驚きはなかった。

 

でも今思えばこのリーダーはわたし(たち)のことを心底理解しようとしてくれてたんだなぁって思う。

 

勉強熱心で、仕事も出来て、あとすごくよく笑うリーダーだった。めっちゃ背が小さいのに頼もしくて、リーダーのくせにいつも始業時間ギリギリに汗かきながら走って出社してくる人。

 

わたしが何か変わったこととか尖ったこと言っても「それがうらりえだもんねー!笑」って爆笑してて、「なるほど、そういう過去があるから今のあんたがそうなってるんだね」といつも勝手に “なるほど” してらしたな。

 

そんなリーダーがわたしは大好きだったんだけど、どうしても嫌なところが1つあった。会社を辞めると決めたときリーダーに物凄く引き止められたんだけど、なかなか折り合いがつかなったからつい言ってしまったんだよね。

 

「〇〇さん(←リーダーの名前)みたいになりたくないんです」って。

 

いま思い返してもなかなかエグイ言い方よ・・・若かったとはいえ・・・。きっとリーダーを傷付いただろうな、あんなに大事にしてくれたのに。

 

ちなみに何が嫌だったかっていうと、リーダーはわたしたち部下にめちゃめちゃ寄り添ってくれるんだけど、めっちゃ時間遣うのよ。わたしが自分で答えを出せるまで、何時間でも、夜22時を越えてオフィスに誰もいなくなっても付き合ってくれる。それが23歳のわたしには物凄くプレッシャーだった。

 

リーダーは子供はいなかったけど結婚はしていた。仕事が好きなんだろうなっていうのは分かっていた。わたしは仕事も大事だけど、プライベートも死ぬほど大事だし、結婚したら家庭も大事にしたいんですけど、って思ってて。こんな風に時間を遣ってもらえることは幸せなんだけど、自分はこんな上司になりたくない、って強く思ってたんだよね。(また言ってもた)

 

ちなみに、当時のリーダーは今のわたしから見たらついに年下になっちゃったんだけど、やっぱり当時の指導法に関して今思い返しても「?」と個人的に思うことがあったのは事実。

 

そんな時ちょうど今の会社の通信教育のパンフレットを見てたら「コーチング」の講座がありまして。ちょっとテキストの試し読みが出来たから見てみたのよ。そしたら「やっぱそうやんなぁ(笑)」って思うことがあった。

 

発達レベルが低い(意欲はあるが能力が低い)メンバーに対しては、発問*1する前に「教える」ことが必要です。

 

教える前に発問してもメンバーはどう考えたらよいのか、知識が乏しいために分からなくなってしまうので、発問の効果は期待できないでしょう。

 

リーダー的には「発問でわたしから引き出すフェーズ」と判断したけど、当時のわたし的にはまだまだ「答えとやり方を教えてほしいフェーズ」だったんだな。

 

「相手を理解したい」という気持ちは素晴らしい姿勢だと思うんだけど、もしも相手が望んでいないタイミングなら、その行為が途端に自分のエゴに成り下がるよなって気付きがあったのもこのとき。

 

エゴと思いやりは紙一重。見極めるのはむずかしいよね。

 

それでもコーチングの勉強は近い内にするだろうな、と思う。そもそも興味があるし、仕事や育児において何かのヒントになる可能性も高いし。それに「コーチング技術で育てられた人間がコーチングを学ぶ」って過去の答えあわせも出来そうな気もするし、おもしろそう。

 

 

 

4.「ウィキペディア先輩」

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「Hey、センパイ。今日の天気は?」

リーダーへの感謝と反抗心を胸にこれまで身近な年下と接してきた私だけど、最近嬉しかったことを記録しておく。これぞ私の思う理想の距離感ってやつ。

 

昨日、会社の後輩ちゃん(25歳女子)からこう言われた。

 

「わたし、うらりえさんのことウィキペディアやと思ってるんですけど」

 

なにそれ笑?と笑いながら聞き流したけど、本人的には褒め言葉らしい。「めっちゃ良い方の意味ですよ!!笑」と仰っていました。(信じていいんだな、後輩ちゃんよ…)

 

言われてみれば私にもウィキペディア先輩(上司)がいる。(めっちゃ良い方の意味です、はい)

 

わたしにとってのウィキペディア先輩とは

  • 何でも教えてくれる、何でも知ってる
  • 困ったらとりあえずこの人に聞けば何か分かる
  • 質問しやすい空気
  • 必要以上に向こうから来ない安心感
  • 説教くさくない

 

後輩ちゃんのイメージと、私のこの印象が一致している訳ではないと思うけど、そもそもリアルウィキペディアってこんな距離感じゃない?

私が理想としてるコミュニケーションの距離感ってたしかにこんな感じかもなぁ、と後輩ちゃんのひとことで気付かされた。

 

わたしもどっちかっていうと基本ほっといてほしい派なんだよね。過干渉な距離というのはそこそこ嫌悪感がありまして。監視されてる気分というか、信頼されてない感というか、居心地は悪いし、斜に構えてしまう。それは優しさでもあるというのは充分に理解しているし、強引に干渉しにいく方がいい時があるのも分かってるんだけど。

 

だからこそコーチングの基本スタンスには賛成なんだよね。相手の芯の部分を引き出して寄り添うってさ、相手を尊重してるというか。拡大解釈にはなるけど、たとえ年下だろうと相手に敬意を持って接するスタンスって感じじゃん。年下といえど、相手の方が経験豊富なことだってたくさんあるし、あちらがベストな案を持っていることもあるしね。

 

そういう距離感の人でいたいなぁって思っている自分としては「ウィキペディア先輩」って呼ばれるのは、第一段階としてこれは喜んでいいんじゃないか?と思う。

 

だけどそれだけじゃちょーっと違うんだろうなぁ。

 

これからも求められない限りはアドバイスを積極的にするつもりもあまりない。アドバイスして欲しい時ってのは、人はそういう意思表示をするものだと思うから。

 

けど、放任しているようで実はちゃんと見守っていて変化には気付くとか、ここぞという時にだけは求められていなくても引っ張ってあげる必要もあると思ってる。

 

ほんの一滴の面倒見のよさみたいなやつは必要だろうなぁ。3滴も4滴もたらすときっと鬱陶しいだけだから、ちょっとでいい。

 

とりあえずは、自分が困ったときや助けて欲しいときだけでも適当にわたしをウィキ(利用)してくれるのは自分的には光栄なことなので、この調子でおけまるってことでよろしいか。

 

 

 

5.まとめ

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いい?まとめっていうのは簡潔に、よ

今日は見事に自分のはなしばっかりだったなー(笑)。でもいい感じに自分の人生の分岐点の記録ができたのでヨシとしよう。

 

結論、人育ての成功体験をもう少し積むまでは仕事は続ける。そのために、今以上に取捨選択してやめる勇気を…もつ(気弱)

 

今の仕事は基本的にプラスが多いけど、マイナスも当然ある訳ですよ。

 

判断のポイントは、

  • プラス面に焦点をあてて、続ける覚悟をくくるのか
  • マイナス面に焦点をあてて、やめる勇気をもつのか

ってとこ。

 

しんどい時っていうのはマイナス面にばかり目がいきがちだけど、実は失ってから気付くプラス面というのもある。

 

逆に、好調だなーってときはプラス面にばかり目がいきがちだけど、実は闇でマイナス面に大事なものが奪われているときもある。

 

ま、どっちにせよ、なんにせよ、時々ちゃんと立ち止まって冷静に考えましょう、って話でした。

 

 

\時短おわるのこわい~笑/

   *うらりえ*

*1:メンバーが潜在的に持っている多様な考えを引き出していくために行う問いかけ

続ける覚悟とやめる勇気。ときどき立ち止まってちゃんと考えたい。

 

1.続ける覚悟と、やめる勇気

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最初に提言しておくけれど、どっちが良くてどっちが悪いって話をしたいんじゃない。続ける方が難しい場合と、やめることの方が勇気がいる場合と、ほんとケースバイケースだと思う。

 

その中でも「さすがにちょっとそれ、よく考えた方がよくない??」って思うのが、

  • 続ける覚悟なく なんとなく続けている場合
  • やめる勇気を持たずしてなんとなくやめている場合

に対して。

 

これって考えることを放棄しているというか、流れに身を任せる方が楽だから流れているだけだよなーって思う。

 

そういう自然の流れに身をまかす方が大事な時ももちろんある。でもそれは一時的な回避でありまして。流れに身をまかせ「続けた」結果、後悔してる人をよく見るんだよね、私は。

 

この辺には賛否両論あると思うんですが、大事な場面では「続ける覚悟」なり「やめる勇気」なり自分で考えて決断しながら、自分が乗ってる船くらい自分で舵取りしたいねって話がしたいんですよ。

 

ここからちょっと自分の話になるけど。

 

ちなみにわたしは元々は「続ける覚悟」が足りない方の人間なんだよね。逆説的にいうと「やめること」は自然的に出来る。継続力が残念な反面、行動力はあるもんだから、「やめること」にめちゃめちゃパワーとか勇気がいる場合でも、必然的に必要で、出来る、って感じ。

 

これは良さでもあるけど、短所でもある事も理解している。だから「続けられること」への憧れが強かったんだよね。

 

そんな「続ける覚悟」が足りない私だけど、今の仕事をはじめて7年半が過ぎようとしてる。これは自分史的には地味に凄いことだなーと。その道のプロから見れば7年半だなんてまだまだ浅い歴史でヒヨッコなんだけど・・・。

 

あとこのブログをつづけて4年半が過ぎた。まぁこっちは途中休憩したりはしてるけど。

 

仕事もブログもどっちにも共通して言えるのは「続ける覚悟」を持ってやってるのはある。続ける覚悟がもともと足りない人間だからってのが根底にあるけど。

 

「続ける覚悟をもつべきなのか」それとも「やめる勇気を出すべきなのか」、どちらを選択すべきか岐路に立たされることはこれから先も何度もあると思う。その時に覚えておきたいことを、「続ける覚悟が足りない私へ」という意味で記録しておく。

 

 

2.続けた人にしか見えない景色はあった

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続けた人だけ手に入れられる副賞チケットもあるとかないとか。

 

「続けた人にしか見えない景色がある」ってよく見かける文章だけど、ほんとにそうだわ。

 

「続ける」とひとくちに言っても、続け方って千差万別だよね。マラソンでいうと、スタート地点はみんな一緒だけど、途中で森林コースと海辺コースに分かれててどっちに進んでも過程が違うだけでゴールに辿り着くみたいな。

 

さらに、最初はその2つのコースの選択肢しかなかったのに、走り続けていくと、続けてきた人にしか見えない新たな選択肢が少しずつ増えてくるなーって感じてる。例えば「マラソンで海辺コース」の先に、「潜水艦で海底探索コース」とか「遊覧船で航海コース」とかが広がってる感じ。

 

「いや、そんな便利な乗り物あるんやったら最初から出しとけよ!」みたいなクレームがマラソン協会に来そうなもんだけど、これは走り続けて来た人にしかそもそも見えない乗り物なんです、みたいな。

 

わたしの場合、仕事を7年半続けた先に見えて来た新しい選択肢がこれ。「教育」と「改革」。どちらもわたしの興味の先にある選択肢。

 

振り返ってみて、たしかにどっちもある程度その道を続けてきた人にしか出来ないものではあるのか・・・と思う。

 

「教育」はまぁイメージ通りだけど、「改革」についても強くそう思う。一見、新参者の方が出来そうな気がするけど、そうじゃない。改革っていうのは ものすごぉーく地道。小さな実績と小さな信頼をすこーしずつ重ねて重ねて…重ね続けた先でしか大きなことは出来ない。(これについては思うことあり過ぎて長くなるからまた別記事に書く。)

 

  • ひとつのことを続けること。
  • 「やりたいこと」をやり続けること。
  • 「小さな信頼(成果)」を重ね続けること。

 

そうやって地道に「続ける」ことではじめて見える景色があるんだなぁと実感してる。それがわたしの場合は偶然「教育」と「改革」というコースの出現だったけど、きっと他にも道はたくさんある。さらに続けていくことで、じわじわともっと興味の純度が高くなっていくんだろうな。

 

 

3.「続ける」と「やめる」は表裏一体

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ぼくらニコイチなんだよね。

 

「続ける覚悟をくくること」と「やめる勇気をもつこと」は表裏一体だと思う。

 

例えば今こうしてブログを書いている訳だけど、絶賛ワーママなわたしに正直自由時間は限りなく少ない。人生で今一番 笑えるくらいに自由時間がない(笑)。それでも、細くてもながーーくブログを続けたいがために、やめていることがたくさんある。

 

正直ここ最近は仕事もプライベートの方も忙しくて、ついに今日はしびれを切らして「睡眠」をやめることでこの時間を捻出してます。これはワーママが一番やってはいけないと心得ている方法です・・・(苦笑)。

 

マンガ読んだり、ゲームしたり、YouTube見漁ったり、友人と交流したり、家事したり・・・ぼ~っとしてたら私のミジンコみたいな自由時間なんて瞬殺でぜんぶ消える。だから、続けるためにやめていることがたっくさんある。

 

仕事だってそう。続けるためにやめたことが思い返せば色々ある。

 

でもこれは何もワーママだけの話じゃない。みんな人生それぞれに忙しいし、時間も有限。続けるためにはやめる勇気も伴うからこそ、ときどき立ち止まってちゃんと考えたい。

 

 

4.「忙しい」は最高の暇つぶし

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暇つぶしは英語で「killing time」っていうんだって。

 

「“忙しい” っていう字は “心を亡くす”と書く」みたいな話をよく聞くけど、一番問題なのってそれよりも「思考を亡くすことだと思うわ。っていうのもここ最近のわたしは思考を亡くしてた気がするから。

 

見出しにも書いたけど、「忙しい」っていうのは最高の暇つぶしだと思うんですよ。だって何も考えなくてもやることめっちゃあるし、気付いたら1日終わってるもんね。のくせに、何か体感的には「は~今日も一日めっちゃ頑張ったわ~」みたいな謎の達成感があるじゃん。ほんと『最高の暇つぶし』ですよ(いい意味じゃなくて皮肉の方の「最高」ね)。

 

こうやって思考を亡くしている(止まっている)ときこそ、冒頭に述べたこの残念な状態になりがち。

  • 続ける覚悟なく なんとなく続けている場合
  • やめる勇気を持たずしてなんとなくやめている場合

 

それに、忙しい忙しいって言ってるときの自分ってめっちゃ嫌いなんだよねぇ。じゃぁ忙しくならないように考えろよ、何とかしろよ、って思う「改革・改善を司る手厳しい奴」が自分の中にひとりいる。こいつの活躍のおかげで、仕事では「改革」を担当させてもらえるという新たな景色が見れたんだけど、、、皮肉なもんで自らに対しても手厳しくなるという・・・(笑涙)。

 

「忙しい」っていうのは、最高の暇つぶしでもあり、最高の言い訳でもあるのかも。(いや、実際忙しいことは事実だから言い訳じゃないんだけど・・・ニュアンスのはなしね、ニュアンス。笑)

 

そんなこんなで結局「忙しい」という恥ずかしい言葉をここで発している訳だけど、悲しいことに来年には “さらに“ 忙しくなることが確定している。時短勤務が終わるからね。

 

いやー、正直今でも手詰まり感ハンパないんだけど、どうやってやりたいことも続けつつ生き抜いていこうか・・・(笑汗)。やってみないと分からない部分は大きいけど、ここら辺で一度ちゃんと立ち止まって「続ける覚悟」か「やめる勇気」か、色々なことに対して答えを出していかないといけないですね。

 

一旦、今日はここまで。

 

 

\この話はつづきまーす/

   *うらりえ*

1日100PVいきそうになってビビっています

 

1.前回の記事が1日で72PVとなり、嬉しさよりも先に「?」がきた

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前回の記事をアップした日に、1日72PVまでいってビビッています。

 

urarie.hatenablog.com

 

いや、私のブログというものはですね、細々とやっている路地裏の小汚い居酒屋みたいなもので、1日に72回も入口のベルが鳴ることなんてないんですよ…。

 

「?」すぎて色々調べてみたら「1日100PV」というのが初心者ブロガーの最初の壁ということを知りました。ほえぇ…。

 

今はtwitterとか他のプラットホームとの連携を積極的にしていないのですが、どうやって皆さんここに辿り着いて下さっているんだろうか・・・。

 一人の方が何回も見に来て下さっているんでしょうか・・・。

 

摩訶不思議なのですが、、、えっと、嬉しいもんですね。

 

ただただ自分が書きたいことをツラツラと書いている状態なのですが、誰かが見て下さっているというのは、うん、素直に嬉しい。

 

だけど同時に、こんな書きたいこと書いてるだけで大丈夫か…?もうちょっとちゃんとしなきゃ。みたいな気持ちが芽生えてしまって、ここ最近は少し書く内容を考えてしまったり、手が止まったりしてしまう日々でした。

 

 

2.「書きたい」が先なのか、「伝えたい」が先なのか

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ニワトリと卵の話みたいなんだけど、そもそも「書く」が目的な人と、「伝えたい」が目的な人がいるよなって思うんだよね。

 

私は今のところ前者寄りなんだけど、後者を少し意識し出している状態。

 

基本的にこのブログは、自分の人生の記録、思考の整理、みたいな位置づけでして(色々試してみた上での今のポジションは)。

 

だから「書く」が目的なんだよね。

 

でも時々「この人に私の考えや気持ちを適切な言葉で届けたいな」って思う場面があって、そういう時に「書く」は手段になるんだな。上手に使いこなしたいな、って思い始めた。

 

「書く」が手段となり「伝えたい」が前に来たときに、初めてこういうPV数とか、誰が見てくれてるかとか、何をどう表現するかとか、そういうマーケティング的な視点が自然と芽生えるのかー、なるほどなるほどー、と体感しております。

 

そういうこともあって、ゆるりとでも「書く」についてちゃんと勉強したいという気持ちが芽生えてまして、そういう本を読んでみた。インスピレーションで選んだ3冊。

 

読書感想文というやつはものすごく苦手なんだけど、せっかくなのでその書籍のことについて記録しておきたいと思う。

 

 

3.編集者、ライター、エッセイスト。三者三様の「書く」

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インスピレーションで選んだ本たちだけど、結果的には三者三様な声を聞けたな、という印象。

 

学びたいという目線で選んでいるので、勉強になった点をピックアップしながら簡単にまとめてみる。

 

1.編集者の「書く」

まずお一人目は、竹村俊助さんという編集者の方の「書く」について。

 


書くのがしんどい

 

さすが、著者やライターに「赤入れ」する立場のお方。

竹村さんの「書く」は、徹底的な読者目線という印象。

 

実用書って感じで、めちゃめちゃ分かりやすかった。

 

そもそもタイトルだけなく、目次がもう何ていうか、読者目線だな~って感じだった。

特にこの辺。

 

CHAPTER1 書く事がなくてしんどい

CHAPTER2 伝わらなくてしんどい

CHAPTER3 読まれなくてしんどい

CHAPTER4 つまらなくてしんどい

CHAPTER5 続かなくてしんどい 

 

ブログでも小説でも何でも、「書く」に携わっている方なら、こういう「しんどい」を少なからず経験したことあるんじゃないかなぁ?

 

「じゃぁ具体的にどうするのか?」という実践的なテクニックもとてもわかりやすーく書かれているから、ありがたい。

 

総じて竹村さんの場合は「伝えたい何か」が先にあって(ハッキリさせて)、その手段として「書く」がある。

 

 

2.ライターの「書く」

お二人目は、一田憲子さんというフリーライターの方の「書く」について。

 


暮らしを変える書く力

 

「書く」に対するスタンスがいちばん今の私に近いような気がして、分かる分かるー!と思いながら読み進めた。

 

あくまで一田さんの「書く」の起点は「自分の心が動いた瞬間」という印象。

 

特に共感出来たのはこの辺り。

 

文章を書くということは、目の前にある「事実」と、自分の内側にある「興味の種」をリンクさせながら分析することなのだと思います。

 

「これはどういうことだったんだろう?」と事実をひとつずつ取り出して、さらに自分の引き出しを開け、中にあるものと比較し、理解していく…。

 

それは気の遠くなるほど大変な作業だけれど、「ああ、なるほど!」と何かと何かがカチリと結びつき、「わかった」瞬間の快感といったら!

 

以前書いたこちらの記事の冒頭でも、なんか似たようなことを言ってました(笑)。

 

urarie.hatenablog.com

 

ちなみに一田さんのブログ「外の音(ね)、内の香(か)」の紹介文の冒頭にこういう一文がある。

 

私の夢は、

おばあさんになっても、誰かに会って「へ~っ」と感動し、

その刺激を、自分の家に持ち帰ったら、

自分の暮らしがちょっと変わる…。

そんなささいなプロセスを、自分の文章で綴っていくことです。

 

ライターとして色んな方に取材をされ、多種多様な価値観と触れていらっしゃるからこそのコメントだなーと納得。

 

わたしはライターじゃないし、書くことはただの趣味みたいなところがあるけど、これは何か分かる気もする。

 

「事実」を伝えるだけでなく、ご自分の体感された「発見」や「感動」っていう生の感覚を大事にされている部分がとても良いなぁと思った。

 

自分の感じたこの生感覚を、それを読んだ人も「じぶんごと」として疑似体験できるような文章に昇華させる技術について書かれており、うわーやっぱこの辺がプロの技術だな~と読んでてとても勉強になった。

 

 

3.エッセイストの「書く」

これに関しては「書く」について論じられている本ではないんだけど。

 読んでいて、もうなんていうか著者の気持ちが滲みまくっていて、色々「書く」について考えさせられたのでリストインさせちゃう(笑)

 

エッセイというものに興味を持ち始めたのは割と最近だから、自分の中に情報がめちゃめちゃ少ない状態ではあるんだけど。

 

今、ジャケ買いしたこちらのエッセイを読んでいる最中。結構おもしろいなーと思っている。韓国で25万部売れてベストセラーになった本。

 


あやうく一生懸命生きるところだった

 

前述したライターや編集者の「書く」は、どちらかというと「文章という成果物として魅力がある」っていう感じが強い気がする。

 

一方、エッセイストの「書く」は「著者自身の魅力」が前面に出てる感じ。

 

ん~、うまく説明できないのが歯がゆいなぁ・・・(苦笑)

 

よくある魅力的な文章の概念ってあるじゃないですか?

「結論が最初にある」とか「シンプルで短い文章」とか。

 

なんかそういう黄金律が多少乱れても、その不調和すらも人間らしくて魅力みたいな、なんか、そういう感じぃぃ・・・(語彙力、消失)。

 

エッセイは好き嫌いが分かれるジャンルだと思うけど、私はこういう人間くさい感じは結構好きだったりする。

 

あまりにも「じぶんごと」を「じぶん語り」で書くのはいかがなものか?とよく思ったりするんだけど、そういう生々しさ?非スマートさ?も楽しむ人もきっと一定数いる。私みたいに。

 

 

 

4.まとめ:タグをちゃんと考えようかな

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えっと、色んな「書く」に触れて考えてみた結果、『タグを整理しよう』という答えに行き着きました(笑)。

 

なんか完全なる勘だけど、書く技術についてあれやこれやと考えるのは、私の場合もっと先な気がするんだよねー…。

 

あらゆることに言えるんだけど、「表面上整っているだけのもの」というものには私はそこまで魅力を感じないんですよね。中身が詰まっていない美しいものというのは、「美しい」けど「惹かれない」。

 

逆に、見かけが多少いびつでも中に熱とかオモシロサとか個性がギュウギュウに詰まっている方が、個人的には凄く魅力を感じるんだよね。

 

(もちろん一番いいのは、外見も中身も充実していることだけど。)

 

これを「書く」に置き換えた時に、今この小手先の技術に囚われすぎてしまうと、ただでさえ面白くないのに(しょぼん…)、もっとつまらないモノになってしまいそうで、何か違う気がするー。もちろん意識はしていかないといけないんだけど。

 

 

他者目線を意識するのであれば技術も大事だけど、「この文章は何なのか?」をラベリングして分かりやすくするというのも、アプローチは違えど読み手への配慮かな、と思った。

 

「これは自分メモ。これは〇〇さん宛て。これは世の中に言いたいことだぜ!(←そんなんあるっけ?笑)」みたいな。

 

現状わたしは「書きたい」と「伝えたい」が8:2…くらいの状態、かな?

現時点でのこのブログは、パブリックな表舞台というよりかは、プライベートなバックヤード色が濃い。

 

そういう思考のバックヤードを好んで見てくれる人と、煩わしく思う人と、色んな読者の方がいらっしゃると思うので、タグで少しでも分かりやすく出来たらいいのかな??などと思いました。

 

そしたら「今回は違いそうだな、やめておこう」と無駄な時間を過ごさなくてもいいし(貴重な時間を奪うのは申し訳ないしね)。逆に「それの方が見たい」と思う人(い、いるのかなぁ…笑??)にとっても判断しやすいかなぁ、なんて。

 

#思考メモ?

#思考の記録?

#あたまの中?

 

・・・ぐぇぇ、センスない(苦笑)。

 

あんまり「わたし語」にし過ぎたら検索問題もあるしなぁ。むむむ。

 

とりあえず暫定で『#思考メモ』とかにしてみようかな。微妙だったらまた変えればいいだけだし。

 

ん~、やっぱり第三者を意識すると途端にむずかしくなる気がするけど・・・ゆっくりとやっていこっと。

 

・・・迷ったら『#思考メモ』をつけて、好きなことを書ーく!笑

 

 

 

*うらりえ*

むかし雑誌に載ったときの話をする

 

 

1.むかし雑誌に載ったときの話

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※これはイメージ画像ですが

 

8年前、私は建築デザインの仕事をしていた。

 

新築の戸建て住宅のコーディネーターをやっていたんだけど、個性的なお客さんしかうちの会社には来なかった。お客さんのこだわりを徹底的に実現する、ゴリゴリの注文住宅だけを作ってるデザイン特化型の建築会社だったんだよね。

 

コーディネーターなんて適当なゆるふわ系のそれっぽい名前が付けられているけど、仕事内容と働き方だけでいったら、まじで人におすすめできるようなものじゃないですね(笑)。

 

1つの家を作り上げるまでに一人でなんでもこなさないといけない役割だったから、そのおうちへの関わり具合といったら多分他社では経験出来ない深度だったと思う。

 

その仕事で、

 

わたしが手掛けた渾身の自信作が雑誌に2度掲載されました。

 

1度目は、会社のHPを見た編集社から会社に電話がかかってきて「雑誌に掲載したいのですが」みたいな運びだったと記憶しています。

 

2度目は、別のおうち。

巻頭特集のトップページに見開きでババーーンと写真が載っています。

 

もう8年くらい前の話だしすっかりこの事を忘れていた。

でも前回チームプレイの記事を書いていて、この時のことを思い出した。

 

urarie.hatenablog.com

 

 

2.自分の本領が発揮されるときって知ってますか?

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世の中の人たちは「自分の本領が発揮されるとき」というのを、自己認識しているものなのかな?

 

わたしはさ、正直あんまり分かんないんだよね。

 

だからこうやってブログを書きながら自分を内観したり、人との関わりの中で気付いたことを言語化しつつ、ちまちまと記録をとっているわけですよ。

 

でも、前回のヨンケイの記事を書いたことで、

 

わたしは一人で頑張るよりも

誰かと何かを成し遂げるときの方が頑張れるタイプ

 

と認識するきっかけとなりました。

 

というのもさ、「好きなスポーツは?」という前週のはてなのお題は、自分にとっては割と簡単に答えられるテーマだったのよ。1週間もあれば書き上げられるだろうなーと軽い気持ちで着手した。

 

なのに実際書き始めてみると、当時の記憶がフツフツと蘇ってきて楽しくなってしまった。ライティングハイみたいな状態になっちゃったんですよね。

 

ちょうど今読んでいる本にこういう記述がある。

 

「無邪気な書き手」と「イジワルな編集者」

 


書くのがしんどい

 

気持ちのいい文章が書きたくて「書く」ことにフォーカスした書籍を何冊か読んでいるんだけど、この書籍の著者は自分の中に2人の役割をつくるとよいと主張していらっしゃいます。

 

まずは無邪気に自分の思うままに文章をダーーッと書く。

そうして出来上がった「ひとりよがりの文章」を、今度はイジワルな編集者が推敲していくのだとか。

「これわかりづらくね?」「ここおもんねー」って具合に。

 

この理屈で言うと前回の記事は「無邪気な書き手」のムジャキさが暴走しすぎて、編集者の持ち時間が足りなくなってしまったパターンです(笑)。1週間後の期日までに編集しきれませんでした(笑)。つらみー。

 

はてな今週のお題にどう付き合っていくかは一旦さておき。

 

「こんなに饒舌に語れるものが自分の中にあるんかー」っていうのが良い発見だったんですよね。

 

なんか、歳を重ねるごとにブレーキかけるのが上手くなりすぎて・・・いや、違うな。アクセルをかけるのが下手になり過ぎて、だ。

 

そう、アクセル全開になることが下手になり過ぎている。

 

アクセルは全然壊れてないんだよね。踏み込むことが出来なくなっているだけで。

 

その見えないラインを自分が超えられるトリガーってなんなんでしょ?

そう考えてみたんだけど、やっぱり「チームプレイ」ってとこなのかも。

 

仕事も趣味もなんだって、チームで取り組むことはワクワクするし底力的なやつも出るんだよね。

 

ここでやっと冒頭の雑誌の話に戻るんだけど。

 

そういえば雑誌に載った2つの作品を手がけているときも、大好きなチームで取り組んでいたときだったなーって思い出したんですよ。

 

自分は建築デザイン・空間デザインも勿論好きだったんだけど、好きな仕事だから頑張れたというより「好きな人のために頑張った」って感覚。

 

お客さんのことがとにかく大好きだった。

 

ちょっと具体的なことを書くのがはばかれるくらい当時は忙しく、責任とプレッシャーが大きすぎる仕事だったんだけど、命を削ってでも完遂できたのは、間違いなくお客さんの存在のおかげ。

 

週一の打合せを半年間つづける中で、その人たちの好きなもの、価値観から人生観、将来の話まで、相手の人生の全てをこってり取材する訳よ。生涯そこで暮らしていくことになる、たっかい買い物なんだからさ、こっちも向こうもそりゃ全力な訳ですよ。

 

ちょっとオーバーな例えなんだけど、自分にとってこの時のお客さん達はさ「死線をともに超えた仲間」みたいな存在なんだよね(笑)。

 

 

3.いつかこのブログは秘密基地に出来たらいいなと思う

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また機会があれば別の記事に書こうかと思うけど、結果的に今はこの仕事をしていません。簡単にいうと限界点を超えてしまいました。

 

色々と消化不良のこととか、苦い想い出も数えきれないほどあるんだけどさ、その時のお客さんとは今でも交流が続いている。自分が作ったその新しい家に何度も泊めてもらったりさ、子供が出来たら連れていったりさ。

 

辞めてしまった申し訳なさもあって、会うことで少しチクチクと心が痛むんだけど、それでも受け入れてくれることに感謝しかありません。

 

 

自分はやっぱり「チーム」として動くことで実力以上の力を発揮できる人間です。

 

残念ながら、一人で最高傑作を生みだせる様な職人タイプじゃないんだよな。

そういうエピソードよく考えたらめちゃめちゃあるわ(笑)。

 

ブログをさ、ずーーっっと続けていきたいと思っているんだけど、

 

ここは自分の舞台ではなくてバックヤードみたいな位置づけだな

 

って思うとしっくりくる。

 

イメージ、子供の頃の秘密基地みたいな。

 

小学校の頃、体育館倉庫の裏にほんとに秘密基地を作ってたんだけどさ。当時はそこで色々友達と面白いことを考えたりしてたなー。

 

ロケット作るか!みたいな話を基地でこそこそと計画立てて、いざ公園に出撃!

公園でロケット打ち上げるもあえなく失敗。

秘密基地にとぼとぼと戻って来ては、リベンジ会議してまたワクワクする、みたいな。

 

自分はチームプレイで本領発揮するタイプだから、そういう仲間がいたらきっとバカみたいなこと考えながらどっかにダーッと走って行って、傷だらけになっても笑って帰ってくるんだろうな~って思う。

 

大人になるにつれてアクセルの踏み方をどんどん忘れてしまっている自分だけど、こうやってブログで棚卸しをしてく中で、やっぱり毎日ワクワクしながら無邪気に生きてたいよなって思っちゃうよね。

 

あー、もっともっと出会いたいねー。

自分の中のオモシロサとチカラが全解放されるような人たちと。

あ、これは他力本願ともいうやつか(笑)。いかんいかん。

 

何か想像したらちょっと楽しみになってきたので、ワクワクした気持ちのまま今日は〆ます。

 

やっぱおもろいことをやっていきたいですね。

 

 

*うらりえ*