自分の本音、自分の深層の思考をつかまえられた時って、難解な謎解きゲームが解けた時のあの快感に近い。アハ体験っていうんだっけ。カチッと何か閃く感じ。
でも「理解できる」=「言語化できる」訳ではない。っていうかこの過程がすごく難しい。
ここを言葉にしてキロクしていきたい。
そんなこんなで、鉄は熱い内に打ってみる。
今日は、自分は「ドライスーツを着た、ただのウェット人間」だと気付けたことについてのキロク。
▼ 目次 ▼
1.「私は私。あなたはあなた。」
私の人との関わり方のスタンスは「私は私。あなたはあなた。」
我が子にすら、割と真剣にそういうスタンス。
こういうととてもドライな人間だと思われる。実際、私も自分のことをドライな人間だと思っていた。
でも違うと気付いた。これは私にとってのドライスーツだ。ドライを纏っているだけ。
ドライスーツを持っていなかった若い頃、私は何度も失敗している。人の心に寄り添おうとし過ぎて。
私から紡ぎ出される言葉は、私という性格、経験、人生を素材としてつくられている。それが他の人間には適応しないことも往々にあるというのに。
人生の失敗から、どんなに距離が近くても自分以外は他人だと思う様にしている。
「私は私。あなたはあなた。」を教訓の様に掲げ続けた結果、気付いたらそれがポリシーにすり替わっていた。
2.私は全人類に興味がある、ってことになる
先の話を噛み砕くと、どんなに身近な人でも極論他人なのだ、私からすると。つまり世の中には「自分」と「他人」しか存在しない。
そして私は、自分にも他人にも興味がある。
正確には、自分と他人の「人格形成の過程」にめちゃめちゃ興味があるんだと思う。
何でそう思うんだろ?この人どんな環境で生まれて、どんな大人の元で育って、何を考え、何を選択して、何を経験してきた人なんだろ?今、何が大事なんだろ?これからどうやって生きていくの?みたいなとこ。
他人に対しても、自分に対しても、このベクトルは向いているみたい。
話は戻るけど、前述した方程式をまとめると『全人類に興味がある』という解になる。・・・何か壮大すぎてしっくり来ない感も否めないが、あながち間違ってない、多分。
「私は私。あなたはあなた。」などとドライ風なことを言っているけれど、実は人間に対する興味と探求心はしっかりめのウェット製な訳です。
これは親しい人たちにも実はほんとよく言われる。
最近友人に言われたのは「人間関係でも浅く、淡泊みたいに見えるのに、実は懐に入るの上手で、意外とかなり人間味がある」らしい。
自己認識としても、他己認識としても、ここらへんはバッチリあっているご様子。
3.近付きたいけど近付かない
全人類に興味深々な私(ということに先程なった)的には、色んな人とお話ししてみたくて、色んな人の心に深く潜ってみたい。
でも基本的に私は「見守る」ことにしている。自分から積極的に近付かないことを、一旦良しとしている。
というか、冷静なドライスーツがそうしろと言ってくる。好奇心旺盛なウェットちゃんに主導権を与えると、勝手に「コンコン、こんにちはー」とか言いながら人様な心をノックしてそうで怖い。ほんと、そういうのは、よしなさい。
これはまた自分の成長と共に、おそらく変わっていく軸の様な気がするけれど、基本的には現状は「見守る」。
見守るというと何か偉そうだけど「待ち」とは違う。この塩梅が難しくて、今も模索中。
大学生の時の話だけど、このスタンスで良かったと感じた出来事がある。
クラスメイトにNちゃんという女の子がいて、挨拶を交わす程度でほとんど話をしたこともない友人だったが、ひょんなことからNちゃんと半月間旅行をすることになった。
正確には、何十人と全国の参加者がいる研修旅行に単身参加したら、偶然Nちゃんも一人で参加していて、同じ大学の同い年ということで、同室に設定されたのだ。
約2週間、寝食どころか、研修でもべったり毎日一緒で、何も知らなかったNちゃんのことを色々と知れたし、当然の様に自然と仲良くなっていった。
だけど研修旅行も1週間くらい経ったある日、夜寝る前にNちゃんに言われたことがあった。
Nちゃん「うらりえって全然恋愛の話聞いてこないよね?なんで?」
わたし「んー。話してくれたら嬉しいなとは思うけど、Nちゃんが話したくなったら話してくれると思うし、言いたくなかったら言わないと思うから、わざわざ私から聞かなくてもいっかなーって感じ。」
Nちゃん「そっか。・・・実はそれ、凄い嬉しいし気が楽だよ。ありがとね。」
結局、最後までNちゃんと恋バナをすることはなかったけれど、研修はとても楽しい想い出となった。
そして、大学を卒業して数年経ってから、Nちゃんといつも一緒に学内生活を共にしていたAちゃんが、トランスジェンダーだと告白していた。
小柄でちっちゃな女の子だったAちゃんは、言われてみれば確かにいつもイケメンだった。何ていうか、服装とか仕草とか全てがカッコよかった。
私の勝手な推測だけど、もしかして当時Nちゃんの恋バナを聞き出そうとしていたら、そういうとてもセンシティブな部分に土足で踏み込むことになっていたのかもしれない。
もしかしたらNちゃんは、誰かに土足で心の中に踏み込まれたことで、苦しい想いをしたことがあったのかもしれない。
もしかしたら、これがドライスーツ君の人生最大のファインプレーだったかもしれない。
全ては勝手な推測だけど、私はこの一件も一つの教訓として「本当は近付きたくても、急には近付かない」様にしている。
その結果、きっと逃している縁もいっぱいあるかもしれない。だけど繋げた縁もある。「見守ってくれるのが心地よい」という人はいるみたい。
でも時々、ドライスーツ君の理性と、ウェットちゃんの本能、どちらを聞いてあげるべきか分からないことも実はある。
4.これからはこう生きる
人間関係は欲張らずに生きる。
だけど、自分の世界では欲張りに生きる。
出来るならば、自分自身の毎日を垂れ流すことなく振り返りながら生きたいし、大事にしたい人を出来るだけ丁寧に理解しながら生きていきたい。
人間は複雑だし変化の生き物だから、そう簡単にはいかないと思うけど。
人生は有限。
自分が丁寧に縁を繋ぎ続けられる人にはきっと限りがある。悲しいことに私のキャパシティはそんなに大きくない。
だから欲張らない様に。と、そうやって制するのはドライスーツの働きだろうな。結局ドライスーツの言うことを優先するのか、と複雑な心境ではある。
もう少し歳を取って余裕が出て来たら、本能のまま生きてみたい欲はある。その頃までにドライスーツを着倒して、スーツを着なくても上手に生きていける様になっていたい。その為にも今こうやって文字を書いている。
学生の頃から数えきれないくらいの人に「ほんとよく考えてるなぁ」と言われまくってきた。
その言葉は、時に思考の深さへの称賛でもあったが、時に皮肉であることも痛いくらいに分かっている。
若い頃はこう言われる度に「うっせぇ、ほっとけ」と心の中で毒づいたり、一方でこの頭の作りに悩んだこともあるが、今は割とどうでもいいのではないかと思えて来ている。
深い思考ゆえの苦しみは適当にあしらいつつ、深い思考がもたらす恩恵だけをじっくり味わえばいいや、と考えているからだ。
これは周りに流されることなく、守りたい、ありのままの自分。
***
自分の内面に深く潜ると、絵が描きたくなる。言葉じゃなくて、こう、感覚的に表現したいというか。
だから描いてみる。
やりたいことをやる。
ありのままの自分を見失いたくない。
そんな風に思った今日。
*urarie/うらりえ*