玉ねぎのあれは目にしみる。

〝考え厨〟の頭の中のキロク。

人生論とブログ論と交換日記プロジェクトの所感

 

1.一番の原動力は好奇心だと再認識した日

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「うらりえ様宛のお荷物が届いております」

 

バーチャルオフィスからの待ちに待った連絡。知らない誰かとの交換日記が返ってきた知らせ。

 

「今日取りに行きます!」と高速で返事を打った。自宅へ転送して貰うことも出来たのだけど、とにかくすぐに読みたくて堪らなかった。

 

その日は妙に忙しい日で、くたっ…と身体はしなびていたけど、早くノートを読みたい一心で早足で電車に乗った。好奇心に蝕まれた身体って、こんなによく動くんだなぁと、何だか他人事の様に妙に感心した。

 

降りた事のない駅で下車。迷いながらも見たことも無い商店街をズンズン歩いていく。ふと左手から焼きたてのパンのいい匂いがした。パン好きの私は、初めて見るパン屋さんでは必ずと言っていいほど足を止めて美味しそうなパンを物色するのだけど、この日はチラッと横目で一瞥しただけだった。

 

 

「ちょっと待て。

 

今、私、久々に凄いワクワクしてるんじゃね??」

 

と、明らかな自分の異変を感じ取った。

 

 

2.ワクワクの感度が鈍くなっている

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程なくして、そういえばこれは懐かしい感覚であることを思い出した。昔は、こういう興奮気味のワクワクが毎日の中に転がっていた気がする。

 

行った事のない場所

食べた事のない物

見た事のない景色

感じた事のない感情

 

知らない事が多過ぎて、それを一つずつ一つずつ潰していく事が最高の幸せだった。

 

 

丁度今読んでいる本にも以下の様な記述がある。

 

どうやら当時のワクワクの正体は、狩猟と採集の時代を生き延びる為、遥か昔から人間にプログラムされていた遺伝子レベルの欲求のよう。妙に納得。

 

脳には新しいことだけに反応してドーパミンを算出する細胞がある。

(略)

人間は新しいもの、未知のものを探しにいきたいという衝動がしっかり組み込まれた状態で生まれてくる。(略)私達の祖先が生きたのは、食料や資源が常に不足していた世界である。この欲求が、新たな可能性を求めて移動するよう、人間を突き動かしてきたのだろう。

(書籍『スマホ脳』より抜粋) 

 


スマホ脳(新潮新書)

 


昔の自分は別人だったんじゃなかろうかと思うくらい、活力と行動力と好奇心に満ち溢れていた。そうやって若い頃、精力的に毎日を生き過ぎたお陰で、いつしか新鮮な出逢いというものが少なくなっていった。

 

何処へ行っても何となく既視感があって、何を食べても知っている味の様な気がして。何か特別なことが起きても、一晩経てばそれなりの平常運転に戻れてしまう。

 

それは、大人たる経験値が生んだ恩恵でもあるけれど、大きな損害でもある。あんなに毎日の中に縦横無尽に転がっていたワクワクは、一生懸命探さないと見つからない様になってしまっていたんだな、と少し切なくもなった。

 

 

あ、多分この頃だ。夜景を純粋に綺麗と思えなくなったのは。

 

urarie.hatenablog.com

 

 

 

3.消費の幸せとは別軸の、生み出す幸せを知りたいのかもしれない

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世界は広い。実はまだまだ知らないものだらけ。「こんなの初めて!」って何かがまだまだきっとある。

 

若い頃の私を突き動かしていたのは、そういう「はじめて」を消費していく幸せ。でも今は、何かを生み出す喜びを味わいたい、という願望もじわじわと芽生えてきている。

 

 

正直「生み出す幸せ」について語れるほどまだハッキリとした持論は持ち得ていない。私でいうと、こうやって書く事くらいしか深みにはまれる生産活動は今のところないし。

 

そういう訳で、真理はまだまだ掴めていないんだけど、この生産活動をそっと見守ってくれる人と少〜しずつ繋がれて、リアクションしてくれる人が現れてくれたりして。それが物凄くじんわり心に沁みている。この感じは、消費することで得られるアレとは違う。

 

ワクワクの感度がすっかり鈍くなった自分の、今までくすぐられてこなかった初々しい部分が開拓されてく感じ。不思議とこれが難しいけれど面白いんだよね。

 

 

だけど「生み出す幸せ」って物凄く広義だよね。何なんだろう。自己表現すること?クリエイティブ活動?発信すること?人を育てること?自分でもよく分かっていない。だから進むしかないんだけども。

 

とりあえず明言出来る事は、消費するだけの人生は楽しいけど、何か物足りないんだよね。

 

 

 

4.交換日記プロジェクトの所感 ~カラメルプリンのカラメルのところをいきなり食べる~

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「知らない誰かとの交換日記」と書くと、一見物凄く繊細な字面だけど、実は物凄く大胆な代物だと気付いた。その大胆さを説明するにあたり、カラメルプリンで比喩してみるとする。

 

人の心って、カップに入ったカラメルプリンみたいだなぁ、などと思うのですよ。

 

私はカラメルプリンのクリーム色のところが好きで、いつもそこを大事に大事に、薄く薄く、スプーンですくって食べ進めて行く。

 

そしたらだんだんカラメル色が透けて見えて来る。あー、そろそろかぁ…と思った瞬間、ジワ〜ッとカラメルがプリンを侵食してくる。

 

何かこれって人の心みたいだなって思う。誰でも苦いカラメルを甘いプリンで隠してる。でも甘いところを少しづつ掘っていくと苦い部分が、こう、じわーっと出て来ちゃう感じ。

 

苦いといっても、ネガティブなことばかりを指すのではないよ。単純に人に話す必要が特にないこととか。あるいは、本人ですら気付いていない本音とか。

 

知らない誰かとの交換日記は、このカラメル部分にお互いが到達するまでのスピードが異常に速い。これは日常生活ではなかなか有り得ない関わり方な訳で。

 

インターネットという仮想空間での私は、カラメル部分を思いっきり露呈しながら息をしている訳だけど、現実世界では勿論そうではない。

 

カラメルを出すには当然人を選ぶし、出すとしてもそこそこの信頼関係は必須だよね。よっぽど向こうから「あなたの事が知りたい!」と言われない限りは出さない。別にそんなディープなとこをわざわざ交換し合わなくてもコミュニケーション取れるんだしさ。

 

そんな中、知らない誰かとの交換日記は、私にとっても参加者の方にとっても、よく知りもしない人のカラメルプリンのカラメル部分にいきなりかぶりつく、大胆なコミュニケーションツールの様に感じる。

 

書くという行為に親和性がある、というくらいしか私達に共通点はない。年齢も職業も住んでる場所も性格も、多分何もかも違う。薄くて脆い関係なんだけど、秒速でカラメルなやり取りしてるって、自分史上たぶん前代未聞。

 

「なぜご参加して下さったのですか?」

 

この質問への答えは、私も含めて皆違う。細かい理由は違えど、そういう繋がりに価値を感じる人種が一定数存在するということは、自分的には結構嬉しい発見でもある。

 

 

5.ブログ論 ~生カラメルと加工品の違い~

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自分のブログ論みたいな話になるけれど、これも良い気付きだったので記録しておく。

 

とりあえず何に気付いたかを先に書いておくと、最近の自分のブログは生カラメルではないってこと。カラメルをめちゃめちゃ加工しているなーって気付いた。

 

生カラメルは、自分の思考の深いところを思いつくまま書いたもの。

 

一方、加工品は、あえて一歩引いて抽象度高く表現したり、逆に物凄く解像度を高くして具体性を持たせたり。私のカラメルのところを、混ぜたり、濾したり、焼いてみたり、いじくり倒してる。

 

何でそんな事してるんだろうって考えてみたんだけど、きっと「第三者に読まれる意識」が芽生え始めたんだろうな。

 

私の目指している文章にはさ、書き手と読み手の思考や感情が絶妙に重なるスポットみたいなのがあると思ってる。書き手の人柄や日常が全面に溢れているのに、読み手が自分ごととして置き換えられる文章。気付きを得るきっかけになる文章。

 

そういう文章が書きたいって気持ちが芽生え始めているんだと思う。

 

スピード感とアウトプット量でいうと、生のカラメルのまま放出していく方が当然手っ取り早い。

 

だけど現時点ではそれを加工する過程にも面白さを感じているし、第三者目線を意識して加工をする事も大切だよなって思ってる。当然時間も手間もかかるんだけど、その過程でまた新発見もあったりするんだよね。

 

視点が数センチずれただけで、笑えるくらい生産スピードが遅くなって、自分でもヤキモキする部分が無い訳ではないんだけど、これはこれで楽しくて学びがあるんだよなぁ。

 

しかし、如何せんスピード問題が目についてきているから、ちょっと方向性をシフトした方が良いかもだ。もっと記しておきたい事がたくさんあるんだけど、日々の忙しさに負けてるな、最近。

 

そんな中、知らない誰かとの交換日記は、久々に生カラメルをそのまま放出している。その懐かしい感覚と、誰かのカラメルにかぶりつくという斬新すぎる感覚と、たった一人に向けて送るメッセージというガチンコ感もある。何かある意味カオスだけど、やっぱり面白いんだよね。それにスラスラと言葉が出てくるわ、加工してない分。

 

 

6.人生論

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「人生論」だなんて大した見出しをつけたものよ。まだ人生半分程度しか生きていないから語れる程の厚みはないんだけど、これも良い気付きがあったから書いてみる。

 

 

私は、自分が人生で獲得して来た「発見」と「真理」が、人の役に立てると結構嬉しいだなって気付いたよ。

 

こうやってさ、自分の思考の記録をするのは、自分の為にやってる訳よ。だから誰かに読まれなくてもそんなに痛くはない。

 

基本的に私は『人生を快適に生きたい』という欲が結構強くある。

そして、『快適に生きる為に、自分というリソースを使いこなしたい』と思っている。

 

そういう欲があるから、こうやって人生の記録を残している訳なんだよね。

 

自分の思考を文字にすると、いつも新発見があるんですよ。

「あ、だからあの時はああだったのか」とか

「実は自分は本当は今こう思っているんだな」とか。

 

書いて整理する事で客観的に分析出来て、そこから真理が見つかるんだよ。色んな事に応用できる真理が。

 

謎解きゲームめっちゃ好きだからさ、謎解きと同じゲーム感覚なんだろうな。大体あるの、出来事と、人の心理と、そういう色んな真実が重なって「なるほど」って腑に落ちるポイントが。これまだ上手く説明できないけど。

 

でもさ、それを人にひけらかす事はほとんどなかった。そもそもそんなの興味あるの自分くらいだろうし。それに、自分と他人は全く違う個体で、私の見つけた真理があなたにも通用する訳ないしな、と思ってるから。だから、大体は聞かれない限り見せない。自分のカラメル部分も、そこから見つけた真理も。めんどくさいじゃん、聞いてもないのにそういうの語ってくる奴。

 

でもね、この変わり者の変わった思考と意見を求めて寄ってくる人がいるんだよ、面白い事に。「何で私みたいな奴の話聞きたいと思った!?」ってめっちゃ焦るんだけど、これはめちゃめちゃ嬉しいんだよね。

 

自分の為に見つけた「〇〇論」が、誰かに「そういう考え方もあるのか」とか「その発想は無かったなぁ」とか、新たな気付きに繋がったり、動けなくなっていた足をまた動かすきっかけになったりすると、最高に嬉しい。

 

かくいう自分も、やっぱりそういう持論を多いに持っている人と意見交換するのが好きだし、最高に楽しい。その考えは自分の人生に取り入れる事が出来ないなってなったとしても、聞けるだけでホント充実した時間を過ごしたなって、ホクホクになるよね。

 

ベースに人が好きってのがあるんだろうな。

 

urarie.hatenablog.com

 

誰からも求められなくても、私は私の為に、これからもずっとこういう生き方をしていくんだけど、せっかくならそこで獲得した「人生を快適に生きる方法論」を、他の人にも使って貰えたらこれほど嬉しい事はないよね。

 

でも、これはさ、対マスに関しては、伝え方が難しいんだよ、今の私には。

 

モチベーションのくすぐり方や、地雷ポイントが分かってる人を相手に伝えるのと、何も知らない第三者に伝えるのとでは、天と地ほどの難易度の違いなんだよね。

 

メッセージを伝えるにあたって、1対1とか、長期戦でさせて貰えるのであれば、私はそれこそ「持論」があるのよ。だけど、ブログみたいに対マスってのは持論のジの字も無いんだよね。

 

 

だからこの辺は、色々試しながらゆっくり模索していこうと思ってる。自分が発信する文章のテイストってやつを使い分けれたらな、などと思っているのだけど、今までは自分か、特定の誰かに向けてしか書いてこなかったから、練習と勉強がたくさん必要なんだろうな。

 

 

そういえば会社ではさ、対マス向けのメール発信と言えば私の仕事なのよ。他部署とか偉い人向けに事実を的確に伝える系のやつね。多分、有難い事に「得意」と見てくれてるんだろうな。長年ゴーストライターもしている。

 

でもこっち系はさ、頭は使うけど、全然心躍らない訳。こういう文章は仕事の中だけにしようかなって。データも真実も出揃った物を文章に起こすのは、仕事と一緒なんだよなぁ。楽しい事だけやりたいんじゃん、やっぱ。書きながら謎を解きたい訳よ。

 

・・・結構変態だな、自分。

 

 

 

まぁ何かツラツラと色々と書いたけど、きっと私が「書く」最大の目的は、「新発見」なんだろうな。

 

そう思うと、結局今も新しい何かを探し続けてて、私の好奇心は全然死んでないんじゃん。探す場所が外から内になっただけで、昔と大して変わってないんじゃん。

 

こういう気付きもまた一興。

 まだまだ夢中になれる余地があると分かって、心底ホッとしたわ。

 

 

 

*うらりえ*