玉ねぎのあれは目にしみる。

〝考え厨〟の頭の中のキロク。

まるで夜景みたい、SNSってやつは。

 

 

 

1.SNSに疲れたら「SNS=夜景」と思えば楽になれる

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SNSを眺めている時に時々

「あれ、この感じ、何か前にも感じた事あるなぁ・・・」とずっと思っていた。

 

それが最近分かった。

 

「夜景を眺めている時」と同じ感覚だった。

 

 

 

夜景を見るのは好きですか?

その時どんな気持ちで見ていますか?

 

 

 

私は・・・

 

「ふ~ん」って感じで見ています(真剣な回答)

 

 

 

いや、夜景を最初に見た時の第一印象は「わー!キレイー!」と感動はする。感動しますとも。美しい景色を見るのは好きですし。

 

 

ただ、壮大な自然や雄大な空を見て膨らむ感情は色々とあるが、夜景に関しては「キレイ」以上の感情や感想は特に持たない。

 

厳密に言うと、持たなくなった。

 

 

 

 

そこでふと思った。

 

時々、SNSを眺めている時、夜景を眺めている時の様な感じだなぁ。

だから、昔みたいにしんどくないんだなぁ。楽なんだなぁ。

 

そんなことに気付いた。

 

 

 

 

2.なぜならSNSも夜景も結局は「他人の生活の集合体」なだけ

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美しい自然を見た時の感動と、夜景を見た時の感動に何故差があるのか?

 

それは、夜景は「他人の生活の集合体」なだけだから。

 

 

住宅やビルに灯るオレンジや黄色の光。

高速道路を流れる天の川の様な輝き。

空に浮かぶリズミカルな光の粒。

どこまでも広がる光の海。

 

 

目に映る光景としては物凄く美しい。

 

だけど実態は、他人の生活から零れた明かりがただ集まっているだけ。

 

 

 

極論だけど、SNSだって他人の生活の集合体なだけ。

 

 

強く明るい光。

楽しそうに弾む光。

弱弱しいけどそっと輝く光。 

 

 

色んな光がある。

色んな人間の人生がある。

そんな他人の生活の集合体。

 

 

1つ1つの光自体が美しく輝いていて、そんな光が集まると物凄く綺麗なんだよね。夜景と一緒。

 

 

ただ、夜景と違って、SNSは1つ1つの光が物凄く近い。

だから傍観し切れない。

 

 

夜景が美しいのは、1つの1つの光の正体が分からないくらい、遠い距離から俯瞰して見ているから。

 

現実は、家の中のLED電球だったり、自動車のビカビカのヘッドライドなのに。

 

 

 

スマホやPCの画面を、超ウルトラスーパーパノラマ画面にびよーーんと引き伸ばしたら、夜景と何ら変わらないと思うのだけれども。

 

 

 

3.夜景を見ると自分の悩みごとがちっぽけに思えていた学生時代の話

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夜景に対して「ただの他人の生活の集合体でしょ?」と、物凄く淡々と語っているが、別に元々こんな斜に構えた捉え方をしていた訳ではない。

 

 

まだまだ多感な学生時代、私にはお気に入りの夜景スポットがあった。

 

 

悩みごとがあった時、友人関係が上手くいかなかった時、親と喧嘩した時、失恋した時。

 

気分が落ち込んでいる時にこそ行きたくなる場所だった。

 

 

そこは、目の前がドカーンと開けた山上の駐車場で、180度美しい夜景が堪能出来る、隠れ家的な場所だった。

 

 

何故、気分が落ち込んでいる時こそ夜景を見に行っていたのかというと、自分の悩みごとがちっぽけに思えるから。

 

 

 

目の前の夜景を彩る光の1つ1つの元に、一人一人の生活がある。

 

 

一家団欒の光もあれば、一人暮らしのOLさんの光もあるかもしれない。

 

もしかしたらどこかの光の下では泣いている人がいるかもしれないし、喧嘩しているカップルもいるかもしれない。

 

どこかのビルのエレベーターの光もあれば、よく分かんない機械が点灯しているだけかもしれない。

 

 

「この光の一つ一つに、色んな人の人生の一瞬が灯されているんだなぁ」

 

「今私が悩んでいるこの瞬間も、世界は色んな人の人生を乗せていつも通り回っているんだなぁ」

 

・・・なんて思うと、自分の今の悩みごとなんて大したことないのかもしれない、と思えたのだ。それが良かった。

 

 

 

少し前、10年振りくらいにお気に入りだった夜景を見に行ってみた。

 

だけど「ふ~ん、綺麗だな」としか思わなかった。

 

きっと、卒業したんだな、と思った。

自分の悩みを他人と比較しながら受け止める時期を。

 

 

 

今は自分の悩みは他人と比べない。

過去の自分と比べて受け止めている。

 

「悩み方が変わったな」

「この部分は成長したな、私」

 

そうやって『過去の自分』と『今の自分』を比べる事で、『明日の自分』が楽しみになる。

 

 

だから今は、悩み事があっても、夜景も見に行かなかくなった。

 

 

 

4.夜景のたしなみ方

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1.夜景は夜にしか出会えない

 

夜景は、夜にしか現れない。

昼間は、出会いたくても出会えない。

 

それぐらいの距離感が、ちょうどよかったのかもしれない。

 

 

しかし、SNSという景色はいつ何どきでも好きな時に見に行ける。

手を伸ばせばすぐそこに現れる。

 

 

何百人、何万人という他人の生活、雑踏の中に佇んでいれば、普通ならそりゃ疲れるもの。

 

夜にしか出会えないからこそ、美しいと思えるのだ、夜景も。

 

 

雑踏の中に飛び込んでいくのが楽しい人もいる。

そうじゃない人もいる。

 

それこそ色んな人がいる。

 

 

自分に合う距離感で夜景をたしなめばそれでいい。

 

 

2.夜景は語らない

 

夜景は、喋らない。

いつもひっそりと、だけど悠々と、いつもただそこに居座っている。

 

だからいい。

だから美しい。

 

好きな時に会いに行けばいい。いつでも夜景はそこにいる。

 

 

「この部屋の電気今つきましたよ!」

「今この街灯、明るく輝いてますよ!」

 

何万人の生活一つ一つが、そんな風にいちいち主張してきたら、私はすぐに家に帰るだろう。

 

 

SNSも、喋ろうが喋らまいが、そこに世界が存在することには間違いないんだから、どっちでもいいんじゃなかろうか。

 

 

ちなみに私は、SNSのお口にチャックをさせて貰っている。

 

その方が会いに行く時のワクワク感がある。

 

 

3.私も夜景の一部

 

私は、自分自身も、夜景を彩る光の1つに過ぎないと思っている。

誰かから見た時の私なんて小さな小さな光だ。

 

ランランと輝いていようが、じりじりと消えかけていようが、夜景の中に溶け込んでしまえば大した差はない。

 

それくらいの心構えが自分にとっては丁度いいと思っている。

 

 

近所のコンビニやスーパーにちょっと出かける時に

「あれ?この恰好やばくないか?いや、誰も自分のことなんて見てないか」

と思うあのくらいの感覚。

 

 

誰も夜景の1つ1つの光の機微なんてそんなに気にしていないもの。

それくらいに思うと結構楽だったりする。

 

 

そんな中、こんな小さな光にたった一人が気付いてくれるだけでも凄いものだ。そこは大事にしたいなと思っている。ただそれだけ。

 

 

 

夜景のど真ん中で明らかな存在感を放つ光になる事を目指すのも良し。

 

夜景の端っこで誰にも気づかれていないかもしれないけど、夜景を夜景たらしめる一つの光であるのも良し。

 

夜景の中には飛び込まず、山上から傍観するも良し。

 

 

夜景の楽しみ方なんて人それぞれである。

 

 

 

5.自分が心地よいと思える距離感で夜景をたしなめばいい

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「世の中には本当に色んな人がいるなぁ」

多くの人は過去に一度はここに行き着いているんじゃないかと思う。

 

そういう自分も誰かからそう思われていると思っている。

 

 

思われているだけならいいが、そこで攻撃されたり、誹謗中傷を受けたりすると、そんな達観した気持ちになれない事もあるかもしれない。

 

 

だけどいつだって構造はシンプルで変わらない。

 

 

色んな人の生活をぎゅっと集めただけ。

夜景もSNSも、いろ~んな人生を、ぎゅっと。しただけ。

 

その中にあなたも、ぎゅっと。入っていたり、いなかったり。

 

 

 

疲れている時にわざわざ夜にお出かけして夜景を見に行かなくていいし、

 

自分の光の輝きが観客の目にどう写っているか考えるのがしんどいなら、今日だけ消灯すればいい。

 

 

夜景もSNSも逃げない。

自分が心地よいと思える距離感で、好きな時に好きな様にたしなめばいい。

 

気楽に行こう。

 

 

*urarie/うらりえ*

 

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」